“My Second Home, Fukushima”


Ms.Alison Nemoto

ゲストスピーカー: Ms.Alison Nemoto 英国出身

平成元年度に来日以来、24年間小学校と中学校の英語教育関わってきた。そして大震災後の平成24年後4月からは宮城教育大学特任准教授として長年の経験を活かして、学生に指導をしている。趣味は、生け花(平成9年に龍生派師範の資格取得)スキー、水泳、写真、ダンス、サルサ踊り、ヨガ、陶芸。


スピーカーのゆっくりでやさしい単語を選んでのレクチャーはスライドを多用しての視角からの理解も相まって、とても分かりやすい文字通りの“やさしい英語でレクチャー”となった。


イギリスの正式国名は、〝グレイトブリテン 及び北アイルランド連合王国“という長い名前であり、又、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから成り立っていて、そのうちウェールズを除く 3つの国の国旗を組み合わせたのがユニオンジャック(イギリスの国旗)であるとの紹介や、人口は日本の半分、日本とは8時間の時差があり、飛行機で12時間で行けるなどのイギリスの基本的な情報などを賞品付き のクイズの出題を交えて行い、楽しい雰囲気でレクチャーは始まった。

1 My background

“私の出身地はHarrogate(北ヨークシャー州)という町で、人々は自分達をNortherner(北部人)と呼び、南部の人達(Southerner)とは、気質が違う。近くのLeeds Metropolitan University教育学部で小学校の先生になり たくて大学4年間学び、22歳の時にALT外国語指導助手(当時の呼び名はELT英語指導助手)の日本政府からの募集を見て、1年間日本で英語を教えるつもりで来日した。1年の予定で福島の原町市(のちに南相馬市となる )に来て、結局25年日本にいたことになる。


注ALT:1987年当時の名称で文部省、自治省、外務省の3省の合同で外国人青年招致事業(通称、JETプログラム)が始まった。この一環としてALT(assistant language teacher当時の名称はELT English language teacher)の事業が始められた。これは、英語を母国語とする国の大学の新卒者を対象に日本に来させて、公立の中学校へ派遣し(その後小学校へも)英語の授業の助手をするというものだった。基本的には単年度契約で、数 回の更新が可能なものだった。現地での面接を行うなどをして、応募しやすい形を取っていた。アリソンさんの来日した1989年ごろには、その規模が全国的に広がった時期である。その後、数は少ないながら、ドイツ語 やフランス語の先生も加えられて、ALTと改称し、現在も続いている。


2 Life before 3/11

始め3年間は中学校でその後は小学校で英語を教えた。同時に結婚もして3人の娘をもうけた。始めは大熊町で13年間英語指導助手を務め、その後大熊町と大野町と合わせて700人に子供に教えた。大熊町は30年 以上まえからオーストラリアのシドニーの近くのバーサスト市と姉妹都市であり、今も交流が続いている。


3 3/11 and its aftermath

3/11震災時は自宅にいた。そこは福島浜通りにあり、第1原発から13㎞の所で津波もやってきた。そこから逃げ、避難所に3昼夜いた。その後ガソリンがあり移動が可能だったので、会津若松に移った。会津はとても 寒かったが、四方を山に囲まれていたので安全だと感じた。山々は美しかった。自然は怖いが自然は又、美しいと感じた。
1ヶ月後に相馬に戻るまでは、ずっと近くの学校で写真を洗うボランティアをした。もしこのボランティアがなければ、仕事を失ったものとしては、何もすることがなくて気持ちがおかしくなっていたかもしれない。
その後、娘の中学校通学の為に南相馬に戻った。私は自ら英語教師をかって出て、市から辞令が出たが、ペンも教科書もカードもない状態だった。大熊町には姉妹都市のバーサスト市や他の所から支援が来た。マレーシ アは小さい国ながらFood Aidsとして2000箱の食物を贈ってくれた。その他多くの国際支援があった。


4 Life after 3/11

(生徒の多くが他の地区へ避難したことで生徒が減少し)南相馬の北部の学校6校が1つの大きな学校となり、私は6月から小学校で英語を教えた。多くの外国人の友人が援助を申し出てくれたが、sticker( シール ) をお願いし送ってもらった。 Stickers for smiles project と名付けて、カナダやハワイ、オーストラリア、イギリスなどから送ってもらった。それらのstickerを生徒は本の仕分けなどに使った。東京の友人には頼んで ポスターや本を送ってもらった。
私は子供に英語を教えて子供が英語を使うことで困難なことを忘れさせてあげたいと思った。このような状況の中で子供たちは英語の時間を楽しんでくれ、歌ったり、ゲームをしたりした。
その後、少しずつ他の外国人の先生がやってきて、現在8人の英語の先生が南相馬に住んで英語を教えている。
今、私は仙台の宮城教育大学で学生(小学校の先生)に子供への英語教育法を教えていて2年目になる。サルサやドラマをやらせている。先生は子供の前では演じなければならない。気分が良くない日でも子供の前では “Good morning!” と元気に明るく言う(演じる)。2012年のクリスマスにはハッピーリースというものを学生に作らせた。葉っぱの形をした紙に一人ひとりが幸せなこと(happy thought)を書き,それをつなげてリ ースにした。
又、〝梨の花プロジェクト〝と名付けて学生を会津に連れて行き、冬には雪の中で遊んだり、子供のクラスの授業を助けたり、除雪したりした。(今の)大学生は大学であまり勉強しないが、大熊や会津では子供たちとよ く遊んだりスポーツを行ったりしただけでなく、熱心に英語を教えた。


5 My dream and perspectives for the future.

私の母校Leeds Metropolitan University と仙台の宮城教育大学が、将来姉妹校になればと思っている。
私はALTを長くやっていたので、新しく福島に来たALTにALTとしてのアドバイスができるし、福島での新しい生活の手助けことをすることが可能だ。今、私自身は南相馬では教えていないが、国際交流協会のメンバーであ り、ALTを集めて文化祭をしたりしている。南相馬ではいろんな国のALTが来ているが、4つの国が集まって英国ができた様に、いろんな国の人が集まって一つになっている。
皆それぞれいつの日にか母国に帰るけれど、私は福島に残る。私達は次にどういう道を取るかはわからない。 しかし、歩かなければ(新たな)道はできない。震災後の8月に東京国際フォーラムの詩人“相田みつを”のミュージアムに行き、暗い中で詩を読んで私は泣いた。It's OK to cry. You are just human.と書かれてい て、私は心を動かされ泣いた。 彼はもうこの世にいないし、震災のことなど知らない。しかし、彼の言葉に感動し勇気づけられた。以前の私は詩を好きでなかったが、震災後、好きになった。英語との対訳本もあるので 皆さんも読んで欲しい。”


質問とディスカッションタイム

Q 何故日本に来て1年でなくずっといるのか?

A  人々はフレンドリーだし、戻る理由がなかった。私の夢は小学校の教師になることだったので、もっとここの子供に教えたかった。もし戻れば、私の人生は故郷の友人と全く同じだろうと思った。もし残れば、つらい ことがあるとしても私の人生は人とは違ったものになるだろうと思った。


Q そもそも何故日本で1年間との仕事を選んだのか?

A  海外に一度行きたかった。ある日、新聞を開いたら日本で1年間英語を教える仕事の広告が出ていたので行こうと思った。別に日本に興味があったわけでもなく、日本についても良く知らなかった。だから特に理由は なく、唯ラッキーだったのだろう。


Q 震災後、貴女にとって教えるということは変わったか?

A  以前は単に英語を教えていた。震災後は人間を教えていると思う。大切なのは英語でなく、(歌ったり、ゲームをしたりして)一緒にいる時を楽しむことだ。私は彼らに“Good job!良くやった”と、よく言い、自信を与える。私自身は授業で沢山のエネルギーを使うが、教えることは又、私自身をも助けてくれる。震災後ショックだったし、悲しかったけれど、毎日学校へ行き“Good morning”と元気な声で元気を演じたら、私も元気になった。


Q この200年の間のわが国の近代化の基本はあなたの国から学んだもので、わが国はイギリスに親近感を持っている。私の質問はこの50年間で英国は変わったか?ということだ。

A  暮し方や考え方について言えば、今は融和(integrated)していると思う。英国人イコール白人ではないし、多くの異なった背景を持ち、異なった肌の色をした人が融和している。仙台の学生を連れて英国でホームステイさせたが、ホストファミリーは黒人や中東からの人が多かった。これが大きな変化であり、文化も宗教も様々なものが存在する多文化社会になった。今、日本にも多くの国の人がいるが、英国はもっと多くいる。 多くの文化の人が一緒になるというのは、悪いことではない。英国人は以前と違って、今は多くの文化の存在を良いものとして認めている。 日本も今後高齢化社会を迎えるにあたり、介護サービスがより必要になるであろう。もっと外国人を受け入れて  aging society(高齢化社会)でなく、 balanced age society(年齢のバランスのとれた社会)にしなければと思う。このまま若い人が少ないと社会は今後上手くいかなくなると思うので、若い外国人をもっと受け入れることが、この問題の唯一の解決策だと思う。


Q(外国人参加者から)ご自分が若い時に日本語を学んだ経験は、どういう風に子供たちに英語を教える時に役立っているか?

A先生にとっては自身が何かを学ぶということは、とても役に立つ。私はサルサを習っているが、前回習ったことを忘れたりする。しかし、それが学習者がどういう風に頑張っているかを想像できる糧になる。。


Q  お話しをお聞きして震災後大変つらい思いをされて、そこから生き延びてこられたと感じた。外国人として外国に住んでいて、あのような災害とその後の原発のことなどが起きたが、あなたの心にどういうことが起こったか?

A  22年間イギリスで生活して、日本に来て25年暮らしたので、今は日本の方が長くなった。本日のタイトルは、“私の第2の故郷、福島”だが、福島・東北は私にとっては私の故郷とよく似ている。私は英国の東北に住んでいたが、今は日本の東北にいる。人々は良く似ていて、自分たちの生き方に誇りを持っている。私にとって厳密にいえば、福島は第2の故郷ではないが、ヨークシャー同様特別な場所だ。震災後は一時会津に避 難したが、主人は南相馬市に勤めている(公務員)ので、震災後からずっと人を助ける為に働いている。私達は6人家族で皆一緒に暮らし、当時英国に戻る選択肢はなかった。私が南相馬でボランティアをすることは、私の南相馬の人々への感謝の表し方だと考えている。


本日のイベントへのアリソンさんの感想

“先週ある都市の英語の先生200人に2時間英語で講義をした。1時間の講義のあと質問時間をとったが、誰も質問しなかった。外国人に取って、〝質問は?“と、聞かれたら、質問するのが礼儀だ。私達は小さい時から、”listen & ask questions” と、教えられてきた。何かを聞いたら、質問を考えて質問する。質問がなければ、興味がないのかと思う。質問はもっと知りたいという興味を表す。 今日の様に、ディスカッションをするのが一番いいと思う。” 今回の企画は福島県浪江町から横浜市青葉区に移住し我々の仲間に加わった伊藤まりさんの尽力で実現した。 地震や津波は自然災害・天災だと思うが、原発のことは人災だと思う。我々はこのイベントの最終準備段階で震災被災者、特に原発の被災者の方々の深刻な苦悩を知ることとなった。 これらの方々が今後少しでも幸せを取り戻して下さることを切に願っている。(瀬戸 信代)

会場風景
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